サンフレッチェ広島の公式HPでリリースがされた。
■日本代表候補 トレーニングキャンプ(4/7~4/9)のメンバーに、石原直樹選手が追加招集!
http://www.sanfrecce.co.jp/news/release/?n=6990&m=4&y=2014
小林悠(川崎F)が負傷により代表を辞退したため、追加招集が決まった。
湘南に入団した1年目から見てきた者としては、彼の代表選出は感慨深いものがある。そして、湘南在籍時は勿論だが、大宮在籍時も含め、怪我や起用法などで不遇の時代も知っているだけに、広島に移籍してからの活躍と、今回の評価には素直に嬉しいと言える。
さて、その石原直樹だが、彼は本当に不思議な選手だった。というのも、清水時代に取材をした岡崎慎司と少し似たようなイメージがある。共通点は、どちらも入団当時はレギュラー争いからは遠い状況で、悪く言えば下手くその代名詞みたいな選手だったからだ。
湘南入団の理由は、群馬県の高崎経済大付属高校という全国的には無名校に、「とにかくスピードがあって身体能力が高い選手がいる」(当時のスカウト談)ということだった。しかし、技術は?といえば、並とのことだった。実際、入団後にプレーを見たがヘタすると並の下くらいの選手だったという記憶がある。しかし、縦へのスピードと、走力があり、化ければ面白いかもと思わせる選手だった。でも、そういう選手は当時から沢山居たと思う(笑)。
それでも当時の湘南は早くから石原に目をつけていて、クラブとしても相当高い評価をしていた。それは、2001年、石原が高校2年生のときから古島清人さんをGKコーチとして高校に派遣していることからも分かる(他クラブからの誘いを受けないように監視させていたのかどうかは別だけど)。そうして、晴れて2年後に湘南に入団すると、1年目の後半にはスタメンにも名を連ねるようになった。しかし、当時の湘南は指揮官がコロコロと変わるような状況(サミア(2003年)、山田松市(2003、2004年)、望月達也(2003年)、上田栄治(2004、2005、2006年))だったことに加え、スピード系の選手にありがちな怪我などもあり、先発の座を奪い、コンスタントに活躍ができそうになると離脱したり、ベンチスタートになるなど、なかなかスタメンを確保し1年を通してチームの軸となるまでは至らなかった。
そんな中、最大の転機が訪れたのは菅野将晃さんが就任してのことだった。シーズン途中で上田栄治さんが辞任し、後任となった菅野監督はいきなり初陣(アウェイの鳥栖戦)で石原を先発起用すると、その後もずっと先発で起用し続けた。菅野さんと言えば、「ハードワーク」。チーム一丸となり、全体でハイプレスを仕掛けてゲームの主導権を握る。そういうサッカーを目指した。その中で、圧倒的なスピードと驚異的なスタミナに加えて、前線からのアグレッシブな守備をいとわない献身的な姿勢は指揮官の標榜するスタイルへ完全にマッチしたのだ。しかし、考えてみれば広島に居る今も、湘南在籍時の昔もプレースタイルは全く変わっていないということかもしれない。
そうして、コンスタントに出場機会を得ると守備だけでなく攻撃でも結果を出すようになる。2006年には(6月から先発機会を得たにも関わらず)9ゴールをあげ、2007年には自身初となる2桁(12)ゴールを記録。更に2008年には18ゴールを決めると、完全に湘南のエースとして君臨した。しかし、チーム事情もあり、石原はそのオフにクラブへ莫大な移籍金を残し大宮へと移籍したのだった。多くの湘南サポーターが涙したが、納得せざるを得ない状況だったことから、今でも石原には感謝の気持ちしか無いというサポーターは多い。当然J1での活躍も期待されたが、大宮では主にスーパーサブとしての起用がメインだった。そこで石原は活躍の場を求め2012年に広島へと移籍すると、そこで2度めのブレイクが待っていた。
「感覚が似ているし、凄くやりやすい」(石原談)という佐藤寿人との出会いが石原を進化させたのだ。広島独特のシステムも、最初は覚えることが多くて戸惑ったというが、持ち前の吸収力の早さを見せ、現在の活躍へと繋がる。そして、そのプレーの質が評価され日本代表の切符を手に入れたのだった。
少し遅咲きのシンデレラストリーだが、努力は必ず報われるという見本でもある。
さて、前置きが長くなったが、このブログで書きたかったのはこのあと。
そんな石原直樹を取材してきたなかで、今でも覚えているエピソードが2つある。
2つとも湘南ベルマーレ時代のことだが、その1つめは、ある日の非公開練習後に取材をしていたとき吹き出しそうになった話。それまでの流れはちょっと忘れてしまったが、今の活躍について聞いている時に石原が突然こう言った。
「俺、ベルマーレには凄く感謝しているんです。だって、サッカーのサの字も知らない俺をこうして育ててくれたんです。プロに入るまでクロスのあげ方も知らなかったから…」
クロスのあげ方も知らないってどういうことかと思って続けて質問をすると、石原はプロに入るまで、クロスというのはサイドの深い位置でボールを受けたとき、ドリブルで上がったときに、それがペナルティエリアまで来ていたら自動的に上げないといけないと思っていたというのだ。湘南入団後の練習で同様にクロスを上げていたら、コーチや味方の選手から「なんで中に人が居ないのに上げるんだ!」と怒られたそうだ。そこで初めて、石原は中に人が居なければクロスを上げては駄目だというのを知ったという。人が居なければ、ボールキープをして味方の上がりを待つことや、自ら中に仕掛けるとか、SBが上がってくるのを待つ。人が居ない状況でゴールの可能性がないクロスを上げても、ルーズボールを相手に奪われるだけでチームのリスクになる。そういう、最近の高校生でも知っているような基本をプロになってから教わったというのだ。もちろん、高校ではFWだったので、サイドハーフとしてプレーをしたことが殆どなかったというのこともあったかもしれない。
また、別の場所では石原の決意というか、急成長の理由、強さを改めて知ったシーンがある。もうチームの顔として、エースストライカーとして活躍をしていた石原を少し茶化しながら(笑)話をしていたときに、ふっと思い出したように漏らした言葉が印象的だった。
「俺、負けたくないんですよね。怪我もなく順風満帆で来た奴には負けたくないんです。だから、もう二度とああいう怪我はしたくないし、そう思った。それに怪我をしたやつは絶対に強いんですよ。活躍している人でもそういうのが多いでしょ」
少し語気を強めて言う石原を初めて見た瞬間だったかもしれない。それくらい強い言葉だった。
ああいう怪我とは、2005年の骨折のことだ。
http://www.jsgoal.jp/official/shonan/00025593.html
3年目、勝負の年。シーズン終盤にようやく先発の座を掴みかけた。しかし、その矢先のことだった。腓骨骨折という診断で、全治3ヶ月。悔しかったに違いない。掴みかけたレギュラーの座が遠のく。目の前が真っ暗になったかもしれない。
この言葉を聞いたからなのか、それからの石原からは、もっと成長したい、もっと上手くなりたい、絶対に負けたくないという気持ちを強く感じるようになった。身長も大きくないし、見た目も飄々としており、どこからみても普通のお兄ちゃん。ヘタすれば優男にしかみえないが、内に秘めた気持ちは熱気を帯びた強いハートを持っている。普段は休火山のように平静を装っているが、中ではグラグラと煮えたぎるマグマが渦巻いていたのだった。それはもしかしたら、劣等感から来るのかもしれない。高校は全国的に無名、年代別の代表どころか、国体選抜にも選ばれたことはない。しかし、もっとサッカーを深く学ぶ環境があれば、自分はまだまだ成長できるという自信があったのだろう。だからこそ、怪我には過敏になったし、才能に恵まれた選手を見ると、こいつには負けたくないという気持ちが強くなった。まして、名門校を出て、Jリーグでプレーするのが当たり前という選手を見ると、余計にそういう気持ちになったのかもしれない。
そうやって、長い年月をかけ成長してきたのが石原直樹という男だ。
湘南時代には、ある試合で後方から来たボールを受けた瞬間に反転し、相手DFの間を強引に仕掛け決勝点を奪ったことがある。いつもとは違ったプレースタイルだった。そのため、試合後にそのことについて質問をすると、「そうでしょ。あそこで消極的なプレーをしたら駄目だって思ったし、相手が嫌がるプレーをしようと思ったんです」とニコニコしながら答えてくれた。実を言えば、その消極的だという試合の後、いくつかのメディアでエースとしての責任を問う記事があったのだった(というか、自他共にエースとして認められてきたことで石原に対する評価は厳しくなっていた)。そして、本人もエースとしての自覚が芽生えていたため、そうした記事を見たのか、もしくは声を聞いてショックを受けていたのではないかと僕は思った。が、そのときは敢えて口にしなかった。でも、人一倍責任感を感じている彼のことだ、きっと悔しくて何度も何度も練習をして身につけたのだと思う。それが試合で実を結んだ。だから終始笑顔だったのだろう。
残念ながら広島に移籍してからは、なかなか取材に行く機会、合う機会が減ったが、いつも彼のプレーは気にしているつもりだ。そして30歳を目前に控えた年、ブラジルW杯を迎える重要な年に、滑り込みで日本代表の候補に選ばれたのだ。ここで書いたことは、今でこそ笑い話かもしれない。しかし、それぐらいサッカーの基本を知らない状態から、Jリーグの門をたたき、プロとなり、移籍をし、J1の強豪広島で2年連続でタイトルを獲得。そして、遂に日本代表候補にまで上り詰めた。上を見ればまだまだ先はあるが、こんなに嬉しいことはない。しかも、ブラジルW杯のある節目の年にだ。
クラブハウスから沢山の荷物を運び出し、車の後部座席に運び込む石原を呼び止め、「代表入り楽しみにしている」と伝えたのが、2008年のことだった。あれから8年経ったけど、あの日約束したことがもう少しで現実になるなんて本当に嬉しく思う。
でも、ここまできたのだから満足してほしくない。どうせなら本大会に出場し、ゴールを記録して歴史に名を残すこと。それができる可能性、チャンスに今回は恵まれたのだから、今こそ雑草の意地を見せて欲しい。
(C) 2014 tomo2take
色々なルートから代表レベルまで成長してゆく選手がいて面白いですね。
ところで最後の方の文章ですが、2008年の8年後は2016年ではないでしょうか?
すみません、そこだけ気になったもので^^;